夕飯はハヤシライスのリクエスト・・( ;∀;)
2019.1.31 木 4時目覚ましで起床(-。-)y-゜゜゜ 13時〜16時 エル実習じゃ、キンチョーするかなあ
弁当は、ハンバーグ冷凍卵でハム目玉焼きおひたしこんにゃくピリ辛炒め、夕飯おでん仕込み済み、ひさーしぶりに糠床をかきまぜてみた、静かに寝ていたという感じ( ^^) _U~~・・さて風呂掃除等してしまいましょう(-。-)y-゜゜゜
嵐会見の「無責任」質問記者と、ジャーナリスト池上彰との共通点 山田ゴメス 2019/01/31 00:38
2017.1.31(火)
くしゃみ10連発で4時半起床・・(;^ω^)・・・
2016.1.31(日)
午前中は掃除をして、午後は図書館に行っておしまい・・
2011年

1/31・・・愛妻感謝の日:1月31日で「愛妻」と読む語呂合わせから、愛妻に感謝の気持を示すことを世界に広めようと、神奈川・相模原の「愛妻感謝ひろの隊」が制定
★★★2010
熟年離婚イヤ!…愛妻家増殖計画
中学受験 不況知らず「減少なし」 東京、神奈川 あすから私立中入試
龍馬だけじゃない!“明治維新の先駆者”吉田松陰の生き様に注目
大相撲「一門」とは…理事選で結束する「派閥」
「ネギが風邪予防に効く」は本当 「A型インフル」感染抑制作用発見
★★★
アデランスCMの正解が話題に
視聴率20%越えナシの冬ドラマ
上野樹里大河主演に期待の声
坊主頭の美人歌手ICONIQ
ドラマでも「若い男に狂っている?」ほしのあき。年上カノジョの何がそんなに悪いのか
◆安くて、コラーゲンもたっぷりの牛すじ肉・・3時間、ことこと煮込んで柔らかく・・牛すじ肉の煮物
★★★2009
「ショウガ入り」ぽかぽか効果
糖尿病が急増中。予防の救世主はみかん?(
★★★
◆
◆お餅で・・ねぎ豚もち、もちの袋煮、焼きもちの中国風豆乳スープ、そぼろ餅
◆サクサク、とろーりな餅ピザはいかが?余った餅でアイデアレシピ
★★★
◆鶏ささ身のおいしい食べ方
◆おくらは便秘に効果的・・
◆なめこは熱湯をかけることでぬめりが増す・・根菜鍋
◆ふわふわの肉団子を作るコツは・・粘りをよく出す、ねばりがでてから卵を加える・・水から(塩を少々入れる)1時間半コトコト・・
◆鶏ひき肉 350g、タマネギ 1/2個みじんぎり、卵 1個、細かく切ったえのきだけ 80g、木綿豆腐 300g、塩 少々(4人分)でふわふわ鶏のハンバーグ・・大根おろしと大葉、酢、醤油でさっぱりと・・
◆ふろるき大根をつくるとき・・・・炊飯器に大根を入れて炊けば、ごはんが炊き上がると同時にゆで大根のできあがり・
家事のコツ大事典より(エッセ12月号)ほか・・
大根のトルコ風ラザニア(NHKきょうの料理)
◆お餅で・・ねぎ豚もち、もちの袋煮、焼きもちの中国風豆乳スープ、そぼろ餅
◆サクサク、とろーりな餅ピザはいかが?余った餅でアイデアレシピ
◆食べ過ぎたときは・・反省ごはん(NHKきょうの料理)
★★★
「きれい!」ミポリン“新たな始まり”の予感・・映画「サヨナライツカ」初日舞台挨拶でシックなドレス姿を披露した中山美穂
男女の胸の痛み映像化 映画「サヨナライツカ」イ・ジェハン監督
★★★
嵐会見の「無責任」質問記者と、ジャーナリスト池上彰との共通点 山田ゴメス 2019/01/31 00:38
出典:「テレ東プラス あさま山荘事件とは何だったのか?〜山荘内部をスクープ取材!〜」より
1月27日の夜に放送されていた『池上ワールド あさま山荘事件とは何だったのか?〜山荘内部をスクープ取材〜』(テレビ東京系)が、じつに濃厚な内容で、ついついテレビの前に釘付け状態となってしまった。
事件から47年が経った本年(※ロケは去年だった可能性もある?)、山荘内部をスクープ撮影。事件に関わった警察関係者などの話を聞きながら、“現場”の軽井沢周辺を「案内人」の池上彰(68)と「旅人」の草刈民代(53)、森本智子(テレビ東京アナウンサー)が訪れ、当時は大学生で、事件に深い関心を持ち続ける池上を中心とし、多角的に検証する2時間におよぶ“力作”である。
さらに、同番組のクライマックスには、刑期を終えた元連合赤軍メンバーへの直撃も。山岳地帯で行っていた軍事訓練の一つである妙義(山)ベースに捜査の手が迫り、逃走──軽井沢駅で逮捕され(逃げのびた坂口弘ら5人があさま山荘事件を起こした)、1998年に出所した(懲役20年)植垣康博氏(70)への独占インタビューに成功している。
そこでの、とくに私の印象に強く残ったやりとり(録画していなかったので多少の記憶違いはあるけれど)の、おおよそを以下に記しておきたい。
池上:自分に非があるということを気づいたのはいつごろですか?
植垣氏:拘置所に入ってからかな? あのなかは独りでじっくり物事を見つめ直すにはもってこいの環境だから…。
池上:では、それまでは思考停止していたってことですね?
たちまちインタビューイが狼狽する。「すごいツッコミだなぁ…」と仰天した。いつもにこやかで好々爺然とした、あの池上サンが……だ。「やっぱ、このヒトって、骨の髄からジャーナリストなんだな…」と、これまでのテレビタレントとしての「わかりやすく政治経済について教えてくれる優しいおじさん」的なイメージが180度変わってしまった。そういえば、選挙特番とかでも首相や幹事長クラスの政治家に、けっこうグイグイと聞きづらいこと質問してたし……。
その同日、「活動休止」を報告する、嵐の記者会見を観た。そして、そこでの「(活動休止は)無責任じゃないかという指摘もあると思う」といった某記者による質問に多くの人たちが不快感を示し、ちょっとした炎上状態となっている。
私も、ライブでその言葉を聞いたとき、「なんだコイツは!?」と幾分かの違和感を覚えた。あえて例えるなら、結婚披露宴の余興で「捨てられた我が身が〜みじめに、なるだけ〜♪」と、内山田洋とクールファイブの『そして神戸』を熱唱する新郎の上司をヒヤヒヤしながら眺めているような心境だろうか。
ただ、あらためて頭を整理してみると、あの質問は、あの「お約束風になごやかな雰囲気で進行されつつあった出来レース的な会見」に案外必要だったのでは……って気もしなくはない。エコノミストの伊藤洋一氏も『直撃LIVEグッディ!』でこう指摘している。(※東スポより抜粋)
「記者会見に緊張感が走るのはいいことであって、それをきっかけに真実があぶり出されることもある」
実際、櫻井翔(37)は「2年近くの期間をかけて感謝の思いを伝えていく期間を設定した。これは我々の誠意です。たくさんのパフォーマンスを見てもらい、それが果たして無責任かどうかを判断していただければ」と冷静に返答し、いっそう好感度を高める結果をまねいた。その翌日には櫻井本人も、自身がニュースキャスターを務める『news zero』(日本テレビ系)で、「あの質問をいただいたおかげで、伝えられたことがある」と、その記者を擁護している。
あえて相手を怒らせて本音を引き出す手法は、インタビューにおける常套テクニックの一つだったりする。欧米をはじめとする海外のメディア記者は、会見中に極力相手が嫌がる、相手を困らせる質問を全身全霊で捻り出すらしい。それこそがジャーナリストとしての使命、存在意義……との理屈なのだという。
たしかに「無責任」という刺々しい言葉のチョイスは、いささか無神経・無遠慮だったかもしれない。が、この「無責任」発言を、また同様に池上サンの「思考停止」発言をきっかけとして場の空気はガラッと変わり、“その後”の展開が(控えめな表現をしても)「微妙に」方向転換されたのも、またたしかなのだ。
大切な人の最期を「看取る人」に必要な心掛け 亡くなる約3カ月前から起きる意外な出来事 玉置 妙憂 2019/01/30 18:10
死の間際、人の心はどう変化するのでしょうか? 現役看護師の女性僧侶である玉置妙憂氏の著書「死にゆく人の心に寄りそう 医療と宗教の間のケア」をもとに、死に直面した大切な人の心に起こることについて取り上げます。
大切な人が死にゆくとき、それを看取る人の心にも変化があります。亡くなる3カ月ぐらい前、人生の着地態勢に入る頃になると、周りの人が本人に対してできることが減っていきます。
外に出かけられるうちは、「こんな催しがあるから行ってみたら?」とか、「一緒に買い物に行こう」などと促していたのが、「どこへも行きたくない」と言われれば、無理に行かせることもできません。ご飯を食べられるときは、少しでも食べやすいものをと思い、さまざまに工夫したのが、「食べたくない」と言われれば、無理に食べさせることもできません。
それで家族は、「何もしてあげられない」「何をしたらいいのか」と、手持ち無沙汰で落ち着かない気持ちになります。私たちは、何かすることがあるほうが、大変ではあっても落ち着いていられるのです。そのため、することがなくなると、本人のためというよりも自分たちの不安を鎮めるために、何かしてしまうことがあります。「家では何もできないけれど、病院なら何かしてくれるかも」というように。
何かしてあげたいと思う気持ちは尊いものですが、本人が望まないのであれば、特別何かをしてあげなくてもいいのかもしれません。一緒にいる時間を作って話を聞いたり、手や足をさすってあげたりする。着地間近の人には、そんなさりげない触れ合いのほうが、大きな意味を持つのです。
「食べたくない」と言われて心配になる
「何も食べたくない」と言われると、家族は心配して、「少しでも食べなきゃダメよ」などと言います。生きていくためには食べなければならないと、私たちは本能に刷り込まれているからです。それで、「なんで?」と食べない理由を尋ねたりしますが、尋ねられても本人には答えられません。胃が痛いとか熱があるといった原因があるわけではなく、死に向かう体がもう栄養を欲していないのですが、本人にもそれはわからないからです。
また、食が細くなっている人のために、少しでも目先の変わったものを、できるだけ食べやすいようにと、工夫して作ったのに「要らない」と言われると、カチンとくることもあります。それでつい、「食べなくてもいいわよ!」などと言ってしまうこともあるでしょう。
家族ですから、喧嘩することがあってもいいと思います。ただ、あまりひどい言い方をすると、亡くなったあとでつらい気持ちになります。「なんであんな風に言ってしまったんだろう」と。
ですから、「食べたくない」と言われたときは、「そうなんだ。じゃあ、今日は下げるね」ぐらいの対応をしておくと、いいのではないでしょうか。「何か食べたいものが出てきたら言ってね」とか、「食べられそうなものがあるなら用意するよ」ぐらいは、言ってもいいと思います。
ところで、「食べたくない」と言われると、同じ部屋でこちらだけ食事をするのは悪い、という気がしないでしょうか? 食べない人の前で、パクパク食べていいのだろうか、と。私も夫に「食べたくない」と言われたとき、子どもたちと別の部屋で食事をしようとしました。ところが夫は、「ここで食べろよ」と言い、子どもたちが旺盛に食べるのを、「気持ちがいいね」とニコニコしながら見ていました。ほかで聞いても、目の前で家族が食べるのを嫌がらない、というよりもむしろ好ましく感じる人が多いようです。
もちろん、抗がん剤の治療中で匂いがダメというような場合は、目の前で食事をするのはよくありません。しかしそうでなければ、この点はあまり気にしなくてもいいようです。「ここで食べていい?」と聞いて、「いいよ」と言われたら、いつも通りの場所で食べる。そうすると、家族の食べる様子を見ているうちに、「何か一口ぐらい食べてみようか」という気持ちになることもあるようです。
「まだ大丈夫」と「もうダメかも」の間で揺れる
医療者から見れば「もう間もなく亡くなる」という状態でも、家族は最後の最後まで「治るのではないか」と思います。ただ、「絶対に治る」と思っているわけではなく、「もうダメかもしれない」「いや、まだ大丈夫だ」と、ダメと大丈夫の間で大きく揺れ動きながら、徐々に希望を削っていると言ったほうがいいでしょう。とてもストレスの強い、つらい日々です。そのため、少しでも希望があると思うと、それに飛びついてしまうことがあります。
よくあるのが、意味のない点滴です。実は病院でも在宅でも、何も打つ手がなくなったとき、医師が「点滴をしよう」と言うことがあるのです。医師に悪気はありません。治すことが使命である医師としては、「なんとかしてほしい」という家族の思いを受けて、「何もできません」とは言えないのです。
家族も、具合が悪くなったときに点滴をして回復した、という経験があったりするため、点滴を打つと言われれば喜びます。けれども、死につつある人にとっての点滴は、むくみや痰の増加を引き起こしてしまうことがあります。
もちろん、がんの末期で痛みがひどい場合などには、点滴は絶対に必要です。痛み止めを入れなければならないからです。けれども、そのような必要性がない場合には、その点滴、あるいは治療や入院が本当に必要なのか、それをしたら本人がどう変わるのかを、医師や看護師によく聞いてから判断したほうがいいでしょう。自分たちの希望のために、死にゆく人に負担を強いるのは、酷だと思うのです。
別の世界に行きつつあることを理解できない
亡くなる1カ月前頃になると、幻覚を見て不思議なことを言うようになります。多いのはお迎え現象≠ニ呼ばれるものですが、なかには「虫がいる!」と言って騒いだりする人もいます。
最初は本当に虫がいるのだと思い、「どこ?」と聞くのですが、「そこ!」と指差すあたりを見ても、何もいません。逃げたのかと思っていると、また「虫がいる!」と言います。しかし、何もいません。そんなことを何度か繰り返すうちに、家族はそれが幻覚だと気づきます。そして、「虫なんていないじゃない」「いないのに、いると思っているだけだから」と躍起になって否定します。
しばらくは「いる」「いない」の応酬ですが、何日か経つうちに、本人は何も言わなくなります。「やっとわかったんだ」と家族はホッとしますが、そうではありません。言っても言っても否定されるので、言うのをやめただけ。本人には相変わらず虫が見えているのです。
虫がいてイヤで仕方がないのに、誰も助けてくれないとしたら、どうでしょうか? つらくはないでしょうか。
このようなときは、相手の世界を否定せず、こちらが相手の世界に入る必要があります。「虫がいる!」と言われたら、「じゃあ、退治しよう」と答えて、追い払ったり殺虫剤を撒いたりする。あるいは、「寒くなったから、そろそろ虫もいなくなるよ」と言う。そのようにして、相手の世界の中で安心できるようにすることが大事です。
台湾の「臨床宗教師」のように、死にゆく人の言葉に耳を傾けてくれる第三者がいれば、本人も家族も随分気持ちが楽になるでしょうけれど、残念ながら日本ではまだ環境が整っていません。そのため今は、家族が死にゆく人の言葉を聞くしかありません。
では、死にゆく人に、どのように向き合えばいいのでしょうか? 一言でいえば、「邪魔をしないこと」ではないでしょうか。「死にたい」と言われたら、「ああ、そうか」と思う。こちらの価値観で否定しない、ということです。そして、もしも気持ちに余裕があったら、「どういう風に死にたいの?」と、聞いてみるといいかもしれません。こうしたい、ああしたいと話したあと、「でも、まだいいわ」と言ったりすることもあります。
できることをすべてしても後悔する
大切な人が亡くなると、しばらくは悲しんでいる時間もありません。葬儀や各種手続きなどに忙殺されるからで、それらが済んで一段落した頃に、深い悲しみが襲ってきます。
過ぎたことを思い出し、ああすればよかった、こうすればよかったと、後悔しては涙するのです。「家に帰りたい」と言っていたのに病院で亡くなったとしたら、「どうして帰らせてやらなかったのか」と、断腸の思いがするでしょう。本人の意思にしたがって延命治療をしなかったとしても、延命治療を受けていればもっと生きられたのではないか、と後悔します。
それはもう、仕方のないことなのです。したことはすべて、その時点でよかれと思ってしたことですし、たとえできることをすべてし尽くしたとしても、後悔は残るのです。
ですから私は、「起こったことはすべて、起こるべくして起こったこと」であり、「終わったことはすべて、よかったこと」だと、いつも申し上げます。そう思い、自分を許していいのです。